2018年NHKの大河ドラマ「西郷どん」に決まったことで
今、鹿児島に目を向ける人が多くなっています。
西郷どんが奄美大島で暮らした3年間どんなことがあったのでしょう?
島民に受け入れられまでの事、島妻を迎えた生活 島妻愛加那さんとは?
気になるあれこれを見ていきましょう。
目次
島流と言われているけど本当は?
安政の大獄により幕府から追及された西郷どんと月照の二人は、冬の錦江湾に身を投げたのですが、西郷どんだけ奇跡的に助かりました。
一人だけ生き残ってしまったことに思い煩っていた西郷どんですが
藩の命を受け、幕府からの追及から目をくらますために、名前を変えて奄美大島に行くことになりました。
島流と言われていますが、実施のところは潜居だったので、藩から扶持米6石を得ていました。
西郷どんは、この島で約3年を過ごすことになります。
始めは、島人に受け入れてもらえなかった西郷どんですが、徐々に溶け込んでいったようです。
島民と溶け込むきっかけになった大事件とは!
奄美大島は、その当時サトウキビで年貢を納めていたので
不作でも一定の量を島津藩の役人から要求されていました。
その取り立ては、尋常ではなく容赦のない取り立てに島人はやっと生きているという状態でした。
西郷どんが島に来た年は、サトウキビが不作で
割当量を納められない家が続失しました。
それでも、その取り立ては厳しく続き代官所へ呼び出され
何日も拘束され、詰問に合いました。
西郷どんは、それを見かねて代官所へ乗り込み
拘束されている島民を解放するようにと抗議しました。
代官は、島の職権に口出しをするなとはね退けますが
西郷どんは、このやり方がどうしても許せずに
島津藩の藩侯に手紙を書いて訴えると反論しました。
さすがの代官もそれでは自分の立場が危うくなると思い
西郷どんの要求を呑むことになりました。
この事件をきっかけに、西郷どんは、島民から厚い尊敬を集めるようになります。
島妻・愛加那さんとはどんな人?
西郷どんが、島民に受け入れられるようになると
独り住いの不便さを無くそうと島妻を勧める声が上がるようになりました。
その時、23歳だった島の名家・龍家の愛加那さんが島妻として嫁ぐことになりました。
二人の生活が続く中で、長男・菊次郎が生まれ、間もなく長女・菊子も生まれる予定で
家族も増えることだからと家を新築した時
藩からの招集命令がきて西郷どんは、鹿児島に帰ることになります。
愛加那も一度は鹿児島についていこうと支度をしますが、島妻制度も守るべきだとの周りの意見を聞き、泣く泣く鹿児島行きを断念したと言われています。
島妻制度って何?
この頃の島津藩では、島妻制度というものがありました。
島での生活のために、妻をもらう事が許されていましたが、鹿児島に戻るときには連れてくる事は許されていませんでした。
正式に婚姻していても、島滞在中の一時的妻という位置付けでした。
さいごに
西郷どんが島で暮らした3年間、いろんな出来事があった中で生まれた菊次郎のその後の活躍など、まだまだお伝えしたい事がありますので、引き続き書いていきたいと思います。
数年前から、奄美大島の伝統工芸士の方が製作している大島紬の生地を使わせていただき作品を作っている関係で、奄美大島に注目が集まっているのを嬉しく思っています。
この機会に奄美の大島紬を知っていただけたらと思ってこの記事を書いています。